現代哲学サロン

ニューマテリアリズムの哲学的探求:物質性への新たな視点とその論争点

Tags: ニューマテリアリズム, 存在論, アジャンシー, ポスト人間中心主義, 現代哲学

はじめに:現代哲学における物質性の再考

現代哲学において、20世紀後半の言語論的転回やポスト構造主義の隆盛を経て、近年再び「物質」の概念に注目が集まっています。この潮流は「ニューマテリアリズム(新唯物論)」と呼ばれ、物質を単なる受動的な対象としてではなく、能動的な生成力やアジャンシー(agency)を持つものとして捉え直そうとする試みです。人間中心主義的な思考や、精神と身体、文化と自然といった伝統的な二元論に疑問を呈し、存在論的な転回を促すものとして、その射程は環境哲学、フェミニズム、科学技術論、政治哲学など多岐にわたります。

本稿では、このニューマテリアリズムがどのような哲学的背景から生まれ、どのような主要な概念を提示しているのかを詳述します。また、カレン・バレットやジェーン・ベネットといった代表的な思想家の貢献に焦点を当て、その現代社会における意義や応用可能性を探ります。さらに、この革新的な思想潮流が抱える論点や批判的な視点にも言及し、読者の皆様が議論を深める一助となることを目指します。

ニューマテリアリズムの核心概念

ニューマテリアリズムは、多岐にわたるアプローチを含むため一義的に定義することは困難ですが、いくつかの共通する核心概念を挙げることができます。

1. 物質のアジャンシーと生成力

伝統的な唯物論が物質を単なる受動的な延長として捉え、意味や主体性は精神や人間的な行為に帰属させてきたのに対し、ニューマテリアリズムは物質そのものに能動的な力や生成力を認めます。物質は固定された実体ではなく、常に変化し、相互作用し、新たな関係性を生み出すダイナミックな存在として理解されます。例えば、ジェーン・ベネットの「活力ある物質(vibrant matter)」という概念は、石ころやゴミといった非生命的なものにも固有のアジャンシー、すなわち世界に影響を与え、変化させる能力があることを示唆しています。

2. 存在論的転回と脱人間中心主義

言語論的転回以降、哲学は認識論的・言語論的な枠組みに限定されがちでした。ニューマテリアリズムは、この認識論的制約から解放され、いかに存在者が存在しているのか、世界がいかに構成されているのかという存在論的な問いへと回帰します。そして、人間を世界の中心に据える人間中心主義的な視点から脱却し、非人間的アクター(動物、植物、微生物、地球環境、テクノロジーなど)の存在論的・倫理的な重要性を強調します。これは、人間と非人間が織りなす「絡まり(entanglement)」の世界を認識することへと繋がります。

3. ディスコース‐マテリアリティ(Discursive-Materiality)

カレン・バレットが提唱する「ディスコース‐マテリアリティ」は、言説(discourse)と物質(materiality)が分かちがたく絡み合っていることを示す概念です。これは、言説が物質から独立して意味を形成するのではなく、物質的な実践や配置と深く結びついているという視点です。例えば、科学的な測定装置や実験のセットアップといった物質的な条件が、どのような知識や真実が生成されるかに決定的な影響を与えます。言説は物質を構成し、物質は言説を構成するという相互構成的な関係性を強調することで、主観と客観、文化と自然といった伝統的な二元論を脱構築しようとします。

歴史的・哲学的背景と関連する思想家

ニューマテリアリズムは、特定の学派として突如出現したわけではなく、複数の思想的潮流や学術分野からの影響を受けています。

ポスト構造主義からの継承と批判

フーコーの言説論やデリダの脱構築は、言説の力を強調し、対象の「実体」性を揺るがしました。ニューマテリアリズムは、この言説の力を認識しつつも、言説が依拠する物質的基盤や、言説に還元できない物質の能動性に着目することで、ポスト構造主義の限界を乗り越えようとします。例えば、言説が身体や性別を構成する力を持つと同時に、身体そのものの物質性や抵抗性もまた言説的な構成を解き放つ力を持つと考える点が挙げられます。

フェミニズムと科学技術論(STS)

エリザベス・グロスは、ドゥルーズの哲学を取り入れ、身体を単なる受動的な「もの」ではなく、絶えず生成変化する「プロセス」として捉えることで、フェミニズムにおける身体論に新たな視点をもたらしました。また、ドナ・ハラウェイのサイボーグ宣言やSTSにおける研究は、人間と機械、自然と文化の境界線を問い直し、関係性の中で主体が生成される様を分析してきました。これらの思想は、ニューマテリアリズムが物質の能動性や関係性を重視する上で不可欠な土台となっています。

ドゥルーズ=ガタリの哲学

ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの哲学、特に『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』における生成の概念、機械的アセンブラージュ、欲望する機械といった発想は、ニューマテリアリズムが物質を能動的かつ関係的なものとして捉える上で大きな影響を与えています。彼らの哲学は、構造や秩序よりも生成や変化を重視し、非人間的アクターの複合的な絡まり合いの中に世界のリアリティを見出そうとする点で、ニューマテリアリズムと深く共鳴します。

主要な思想家とその貢献

ニューマテリアリズムという括りの中で特に影響力のある思想家を何名か紹介します。

カレン・バレット (Karen Barad)

量子物理学者でもあるバレットは、ニールス・ボーアの哲学からインスピレーションを受け、アジャンシー・リアリズム(agential realism)という独自の存在論的・認識論的フレームワークを提唱しました。彼女の核心概念である「アジェンシャルな分離(agential cut)」は、測定対象と測定器具が事前に存在し、測定によって分離されるのではなく、測定行為そのものが対象を「分離」し、構成すると考えます。これにより、観測者と被観測者、主観と客観といった二元論を根底から問い直し、世界が「絡まり(entanglement)」合いながら生成される様を描き出します。彼女にとって、言説と物質は不可分であり、世界は言説‐物質的な実践の絡まり合いによって生成されるのです。

ジェーン・ベネット (Jane Bennett)

政治理論家であるベネットは、スピノザやドゥルーズの哲学に深く根ざしながら、物質のアジャンシーという概念を現代政治・倫理の文脈で再考しました。著書『活力ある物質(Vibrant Matter)』において、彼女は生命体と非生命体の区別を曖昧にし、石、金属、ゴミ、電力網といった「非人間的アクター」にも固有の生成力と、人間の生活や政治に影響を与える能力があることを主張します。これにより、環境倫理や社会変革を考える際に、人間中心的なアプローチだけでなく、物質の側からの働きかけや抵抗力を考慮することの重要性を提起しています。

ドナ・ハラウェイ (Donna Haraway)

STS研究者であるハラウェイは、ニューマテリアリズムの源流の一つとして位置づけられます。彼女の「サイボーグ宣言」は、人間と機械、生物と非生物の境界が曖昧になる現代において、新たな主体性や政治的可能性を探るものでした。また、彼女の「共生種(companion species)」の概念は、人間が他の生物(犬、微生物など)との相互作用の中で自己を構成し、世界を認識するという、関係的で生成的な存在論を示唆しています。彼女は、特定の視点(Situated Knowledge)の重要性を強調し、普遍的で客観的な知識の主張を批判することで、知識の物質的な構成を意識するよう促します。

現代における意義と応用可能性

ニューマテリアリズムは、現代社会が直面する喫緊の課題に対し、新たな思考の枠組みを提供します。

批判的視点と未解決の論点

その革新性ゆえに、ニューマテリアリズムには様々な批判や未解決の論点が存在します。

結論:開かれた問いとしてのニューマテリアリズム

ニューマテリアリズムは、現代哲学が直面する多くの課題に対し、刷新された存在論的視点を提供し、物質性に対する私たちの理解を根本から揺さぶります。それは、人間中心主義的な思考の限界を露呈させ、非人間的アクターとの共存や共生成のあり方を深く問い直すことを促すものです。

もちろん、その概念の範囲や倫理的・政治的含意には未解決の問いや批判が存在します。しかし、まさにその未確定性、開かれた性格こそが、ニューマテリアリズムを現代哲学における最も活発で魅力的な領域の一つにしています。私たちは、この新たな潮流が提起する問いに向き合うことで、現代社会の諸問題を多角的に捉え、より包括的な思考を育むことができるでしょう。

この論考が、読者の皆様にとって、ニューマテリアリズムという複雑で刺激的な思想について深く考察し、現代哲学サロンで活発な意見交換を始めるきっかけとなれば幸いです。物質と存在、そして私たちの世界の捉え方について、共に議論を深めていきましょう。